左はH氏賞受賞のころ(40代)、右は生前最後の詩集『乾季のおわり』を出版したころ(60代)の大野新

   大野新ノート(1)    詩集『階段』

 

 現代詩文庫『大野新詩集』(1984年、思潮社)を京都駅前のアバンティブックセンターで買ったのは、1993年十二月十一日のことであった。翌週の十二月十九日の近江詩人会の合評会で初めて大野新(当時六十五歳)に会う前に、その作品を読んでおこうと考えたからである。私は近代詩は読んでいたが、現代詩についての知識は皆無に近い二十六歳であった。冒頭の「手おくれの男」という詩に身体が震えた。

 

   おでんやでは隅でよろけている椅子にすわる

  するとにわかにそれはぼくだけの椅子になる

  小さな所有から腰をあげると

  ぼくにはいつも居住の不安定さがはっきりする

 

  ものごとがおわってからはじめてぼくは気づくらしい

  たとえば一日を吐瀉してしまった貨車のように

  ぼくは夜のなかに夜よりもくろくうずくまりながら

  かすかにのこる牛や陶器のにおいをさぐりあてている

 

  あやまっておとした鏡には

  みじんにくぎられた空がうつる

  そこでようやくひとつらなりの天を見上げるしまつだ

 

  ―愛と健康もうしなってはじめて切ないが

 

  死をすら

  ぼくは迎えてしまっているのではなかろうか

  つねにおそってくる予感がぼくには記憶とまぎらわしい

  盃をしずかに乾す/するとゆらゆらういている模様がすっとさだまる

  そんなふうに死が見えているのは

  これはたしかにぼくには手おくれの出来事ではあるまいか

                          (全文)

 

 大野新の詩の第一印象はドロッとしたものだった。これは、私がこれまで詩の鑑賞基準としていたサラリとした美的感覚とは異質なものであったが、この「ドロッと感」はいつまでも私の内蔵深く留まってしまった。このとき、私の前に確かに現代詩への扉が開かれたのである。

 私が大野新と出会った一九九三年は、生前最後の詩集となる『乾季のおわり』(砂子屋書房)が発行された年であり、大野が師と仰いでいた天野忠が他界した年でもあった。創作活動としては衰退期に差し掛かっていた頃であったと言っていいだろう。私はその年末、天野忠と入れ替わるように大野の前にひょっこりと現れたのであるが、住所が近かったこともあり、やがて親しく現代詩の手解きを受けるようになった。この頃、大野新は積極的に作品を書かなくなっており、徐々に依頼原稿も断るようになっていた。私は大野新の全盛期を共に歩んだものではないので、大野が現代詩の世界で果たした役割を的確に論じる能力はない。しかし晩年の十数年をかすめた最後の弟子として、大野新の作品群ごとにノートを綴ってみたいのである。

 

    ◇   ◇   ◇

 

 大野新は、1928年、旧朝鮮(現・韓国)全羅北道群山府(現・群山(クンサン)市)生まれであるが、敗戦により遠縁を頼りに滋賀県に引き揚げた。その後、旧制高知高校を経て京都大学法学部に進学するが、喀血して滋賀県の国立療養所紫香楽園に入所。死を覚悟しながら、一九五五年までの六年に及ぶ療養生活を送ることになった。翌年、近江詩人会の井上多喜三郎の世話により京都の詩人、山前実治が経営する双林プリント(文童社)に就職している。

 先に引用した「手おくれの男」は、第一詩集『階段』(一九五八年、文童社)の巻頭作品である。B6判三十頁、収録作品十三篇の薄くて地味な詩集。大野は生前、手で紙を折る真似をしながら「こういう折り方の一番簡素な本で、最初のボーナス代わりとして、造って貰った」と私に語った。

 詩集刊行当時、大野は三十歳。近江詩人会の他に、長浜在住の武田豊が主催する同人誌「鬼」に所属するとともに、詩人の登竜門でもあった月刊誌「詩学」の研究会への投稿も行っていた。また詩学研究会の投稿者十人が集まった同人誌「Ⅰ」(群馬県の長谷川安衛が編集)にも参加している。

 詩学研究会への投稿は、1956年二月号から1957年十一月号までの期間に行われているが、「詩学」に掲載された作品は「死の背後から」「ある確証」「イメージはうしろからくる」「野犬」の四篇である。このうち、「イメージはうしろからくる」以外の三篇は『階段』に収録されている。また「手おくれの男」は、「鬼」に発表されたものであるが、「詩学」1956年九月号の「全国詩誌展望」欄で全文掲載されている。このように大野新の第一詩集『階段』は、わずか十三篇の収録作品ではあるが、詩壇の公器と呼ばれていた「詩学」で認められた、いわば「陽の当たった」良質の詩作品を支柱に組み上げられた強固な書物であり、死から生へと歩みを変えた大野新の生の奇跡が定着した詩集なのである。『階段』の「あとがき」には、次のように記されている。

 

   何年となく、私には生よりも死の方が親しかったので、死をたしかめ

 なければ、生へでていく手がかりがないように思えたのでした。病いと

 いう避けがたい出あいから、ふしぎな傾斜をすべりおち、そこから見上

 げる生はまぶしい。今、そう思えます。

 

 大野新によると、『階段』は「詩壇的にはほとんど黙殺された」(エッセイ「老年」より)詩集であったという。しかし、この第一詩集から、まぶしい詩人との出会いも加速して行くことになる。大野新の新たな生の静かな幕開けであった。

 

【掲載誌】『交野が原』75号(2013年9月1日)

  大野新ノート(2)    作品集『黙契』

 

 国立療養所紫香楽園という死の国の入り口から、生の世界に帰還した大野新は、第一詩集『階段』(1958年、文童社)を刊行する前年に、『黙契』という簡素な作品集を発行している。変形A5判(22.0×15.6㎝)91頁。紙質の悪いわら半紙にガリ版刷りで二ヵ所ステープラ留めされたものだ。私の手許にあるものは、開く度にボロボロと粉が出てしまうほど劣化が進んでいる。奥付はなく、「あとがき」末尾に(一九五七・五・三十)の表記がある。内容は、「創作集」(二作品)、「詩人論集」(四作品)、「読後感集」(三作品)から構成されているが、「あとがき」に次のような説明がある。

 

   ほとんど病後二年間の作品である。機会あって書いたものが多く、他

 はためらってすてた。発表の意図なく書いたものは、自分にむかっての

 媚態があるようで、そんなやわらかな甘さがはずかしかったから。なか

 に小品「落書き」一篇だけは療養時代の陰花植物のようだった生活への

   不思議な愛着があってとりあげた。

 

 「創作集」二作品の内「黙契(放送用詩劇)」は『大野新全詩集』(2011年、砂子屋書房)に収録したので、ここでは紙面の大半を裂いてしまうことになるが、大野が棄てきれなかったという「落書き」全文を読んで貰いたい。

 

       落書き

  

   一病棟から三人程一度に退院して行って、その際壁際のベッドが空に

 なったので、私は早速荷物をまとめ、その後に陣どることにした。片側

 がしらじらと何の変哲もない壁であるということは、自分の考えを固型

 するための必須の条件であるような気がする。或いは意識を平常に保つ

 ための最善の拠所であるとも言えるかも知れない。難かしい言葉を並べ

 てとやかくと壁に対する神経反応を書くのはナンセンスだろう。結局、

 気持が落着く、と、それだけのことだ。

   ベッドに落着いてしみじみと壁を眺めまわす。すると壁がまっすぐ向

 うに倒れて新しい部屋が張りだしてくる、などとホフマンの小説のよう

 な幻覚は起らないが、でもどこかに落書あたりは見つかるものだ。落書

 などとは馬鹿に他愛ないかも知れないけれど、でも私にとってはこの誰

 が書いたか判らない徒然の文字が意外に空想をかもしだしてくれること

 がある。ベッドに横たわって丁度手をさしのべた位置に、それも手の及

 ぶ半円のかたちで横文字が並んでいた。madness(狂気)、adman(

 狂人(キチガイ))、それに no less thanなどという熟語も書いてある。

 読んだとたんに撥音の多い言葉だなと考えた。m音、n音が頭のなかで

 ぴんぴん撥(は)ねてる感じだ。小人(こびと)がガラスの靴をはいて頭の

 うちら側でタップダンスをやってるような、感覚的な音感構成をもって

 いる。しかし、この狂燥な音感とは別に、この文字を書いた人の心は意

 外に静かなのではなかったろうかとは確かに思えるのだ。静かというよ

 りはむしろ遊んでるこころというべきかも知れない。

   堀辰雄が立原道造を追憶した文のなかに、道造の落書が辰雄の住んで

 る部屋の壁に残されていたという所があったが、その落書は‘Wenn ich

 wäre ein Vogel!’(僕が鳥だったらなあ!)という言葉だった。これは如

 何にも道造らしい言葉だが、言葉のいきいきした感じとは別に、道造の

 倦んだような顔つきしか思い浮ばないのは、これも落書という場の所産

 だからだろうか。

   今落書を訳しながら気がついたことだが、これを外国語でなく日本語

 で書いたものだったらどんな感じがするだろう。僕が鳥だったらなあ、

 などという言葉など甘すぎてとても書けたものではないかも知れない。

 感じがあまりにも直接(じか)だったからだ。「きちがい」などとi音の

 強いきりきりする言葉など、とても平静な頭では書けないだろう。ドイ

 ツ語で書かれてみるといかにも童話風(メルヘンリッヒ)に見える道造の

 言葉だから妙だが、然し、僕が鳥だったらなあという日本語をドイツ人

 が翻訳しながら読んだとすれば同様にメルヘンリッヒであったかも知れ

 ない。問題は記号のやさしさだけだ。

   二三日前、ぼんやり天床をながめていたら、ふっと思いつきのように

 考えが小さくまとまって詩になった。

  

          人の詩を読んでると

          私は何だかがらんどうの空間を馳けてるよ

          うな気持になる

          

          ところががらんどうのような夜中に目醒め

          ていると 逆に

          私の頭は詩句で一ぱいになる

  

   頭のなかにも壁のような無意味な面積があって不用意な時に落書され

 ているのかも知れないとと思うのだ。

 

 この「落書き」のジャンルは何だろうか。梶井基次郎の小説に似ていないこともないが、潔く随筆と割り切るべきであろうか。しかし、ジャンルの判別に関わらず、大野新が「落書き」一篇を棄てきれなかったことだけは事実である。恐らく大野は、結核療養所の死の淵にあって、「ふっと思いつきのように考えが小さくまとまって詩になった」ことを魂の記念碑として刻んでおきたかったに違いない。死によって「落書き」された大野新の命の詩の出発点を、記しておきたかったに違いないのだ。

 

【掲載誌】『交野が原』76号(2014年4月1日)

  大野新ノート(3)  詩集『藁のひかり』

 

 『藁のひかり』(1965年、文童社、後に『藁の光り』に改題)は大野新の第二詩集である。敗戦により家族の財産を没収され旧朝鮮(現・韓国)から引き揚げてきたのが二十年前、多くの死者を見送りながら青春を棒に振った結核療養所から退所したのが十年前になる。物質と人生の喪失という事態に直面し、その事実に抗う術なく堪え忍んできた経験が客観視され、独特の表現に定着し出したのが『藁のひかり』所収の詩群が生み出された時期であり、大野新の最もスリリングな詩集であると言ってよいだろう。

 『藁のひかり』は四章から構成されているが、「Ⅰ」には常人とは受容レベルが異なる特異な身体感覚に裏打ちされた行分け詩十六篇が収録されている。「Ⅱ」は大野が愛読したアンリ・ミショーの影響が伺える非日常設定の散文詩が八篇、「Ⅲ」では女のスケッチをテーマにした散文詩五篇が収められている。そして「Ⅳ」において、詩集全体を包含する形で、「死について」というやや長い散文詩が配置されている。まず、「Ⅰ」の独特な身体描写を確認しておきたい。

 

  ねいりっぱな

  くちびるからいっきにうらがえり

  なかみをくるっとむいてみるくせが

  ぼくにはある

  ねむっているときの監視のない内臓がすきなのだ

  すその水たまりで精子がちょろちょろするのもあいきょうだが

  なにより

  のどのたるみのない坂から

  ゆるいカーブでとじられる肛門まで

  ゆったりとうごいているのがいい

                      (「小康」より)

    

  ぼくの精神は衣裳よりやせていて

  町も空もだぶついてみえる

  明日はもっとやせるだろう

  (中略)

  ためらいのないものを尾けていこう

  たとえばあの縫い目のない少女のあしを―                        (「四月」より)

  

   ひとしずくのエーテルの痕跡もなく

  ぼくは見えなくなる

  あるいは低音歌手ののどのまがりかど

  犬の腸のまがりっぱなでもいい

  (中略)

  前よりいくぶんすきとおった町かどに

  ふいにあらわれる男は

  ぼくではない

  男はぼくの消えたあたりから

  昆虫の顎をしてでてくる

                                             (「秋のかお」より)

    

   おれの酔いを尾けている尺取虫

  ねばい足のうらであるく

  (中略)

  蟻の足で腹筋をのぼってくる

  じんましん

                                        (「酔ってあるく」より)

 

 「監視のない内蔵」や「ゆるいカーブでとじられる肛門」は、自意識を希薄化させながら自己の身体を突き離して言語化した見事な表現であるが、「縫い目のない少女のあし」や「昆虫の顎」など他者の肉体を見るときも、異次元表現を採用しながらも妙な手触り感をイメージできるように堅実に作品に取り込んでいる。この半ば病的といえる身体感覚は、「Ⅱ」の作品群において更に増幅され定着していく。

 

  ぼくはたべられてしまった それはしかたない けれど困った 

  やせた耳だけがのこった よほどまずそうにみえたのか 遠まわし

  にたべられたので知覚もろとものこった それが不幸のすべてだ 

  大きな耳 大体が調子はずれだが めがねや帽子にわかれるといよ

  いよそっけない たべのこされても平気でぺたんところがっている

 

  ぼくはそのまま蟻地獄になった 疑問符のかたちをした耳のみぞ

  ではしりまわりずりおちる蟻

                         (「耳」より)

  

 大野は評論集『沙漠の椅子』(1977年、編集工房ノア)所収の「「犬」を尾つける」で「病的感覚を物象化しつづけることで、一種のカタルシスを得たことは、書きはじめてから比較的早い(年齢的ではない)作品のリアリティをもった」(前掲書P122)と述べているが、この「耳」などは非現実的な場面設定においても、妙に生々しい感覚が伝わってくる。「Ⅲ」の散文詩は「女・デッサン」「背中」「半身」「投影図」「嫉妬」のタイトルが付されているが、同人誌『ノッポとチビ』での初出時には、それぞれ「デッサン Ⅲ」「デッサン Ⅵ」「デッサン Ⅱ」「デッサン Ⅳ」「デッサン Ⅴ」となっており、足を高く組ませる女を言葉で素描するタイトル通りのデッサンをはじめ、厨房に消える女、眠る妻、編み物をする女、そして再び眠る女を鋭角的にデッサンする連作詩となっている。

 終章の「Ⅳ」は前述した通り「死について」の一篇だけであるが、当作品の力強さが、『藁のひかり』全体を包み込み、「Ⅰ」から「Ⅲ」の諸作品の意味を再提示する役目を担っている。「死については」結核療養所の二人部屋の同室であったTの手術中の急死を巡るエピソードが中核を成すのだが、作品は次のように終えられる。

 

    異常さをだれもがもてあます環境にはちがいなかったが、その翌晩、

 看護婦が私のベッドにしのんできたものだ。そして、私は、死からはじ

 きだされたそのままの勢で、生の猥雑さのなかにころげおちていった。

 

 結核療養所を出た後の大野新は、この「生の猥雑さ」の中で死の言葉を拾い続けてきたに違いない。石原吉郎は『ノッポとチビ』30号(1966年三月)で「すでに絶望してしまった人間に、もし時間が残されているとすれば、その時間は一体だれのものなのか、そしてそのなかで、つぎになにをしたらいいか。それが『藁のひかり』全体が私たちに問いかけているもの」であると述べている。石原と大野を貫く重い批評である。

 

【掲載誌】『交野が原』77号(2014年9月1日)

  大野新ノート(4)  詩集『犬』

 

 『犬』は単行本形式で出版された詩集ではなく、『大野新詩集』(1972年、永井出版企画発行)に既刊詩集二冊の全作品と共に収録された未刊詩篇二十七篇の総タイトルである。『大野新詩集』は各詩集を分冊にした特装本もあり、H氏賞受賞後の1978年三月には新装版が出されている。永井出版企画からの出版の経緯は、大野の影響を強く受けた清水昶の尽力によったと生前の大野から私は聞いた。この企画出版の申し出がなければ、『犬』は単行本として刊行されていた可能性もあるが、何れにせよ、H氏賞受賞詩集『家』(一九七七年、永井出版企画)と共に、大野の詩業の双峰を成す詩集といってよいだろう。

 『犬』の概観については、近代日本文学研究者である外村彰が『滋賀近代文学事典』(2008年、和泉書院)で的確に評しているので、次に引いておきたい。

 

   大野の詩的技法の達成点を示す「犬」27編は3部に分けられ、「Ⅰ」

 には轢死した犬からの臓物や腐敗臭、また吐瀉物をなめ、身体に接触す

 る死犬のイメージが描かれる。詩「耳なり」で「いかなるふるさとも/

 いかなる身よりもなくふりむく/海の犬よ」と呼びかけられる犬は、内

 面にあって自己の世界への疎外感を体現する詩人の精神の陰画とみられ

 る。「Ⅱ」では「遠方」など絵画や死、夜や眠り等から触発された幻影

 をあらためて思惟的に把捉する詩がまとめられ、「Ⅲ」では「室内」な

 ど皮膚感覚の不快さや身の回りで感得する死の匂いをモティーフにした

 詩を収めている。

 

 それでは、次に『犬』の最初に配置された作品を見て頂こう。

 

   あやまって

  子供の飼犬を轢いた

  くるしんで

  死んだ

  声もあげずにそい寝していた子供は

  いつのまにか

  犬のまぶたをめくり

  そのねろねろの境からもぐりこんでいた

  気がつくと

  喉頭で痰のようにぶらさがっていたが

  ちっそくしかけるのを

  ひきずりだすと

  オブラートの眼でわたしを見て

  はってとなりの部屋へ行った

  からだをささえるほそい肘が

  ふるえていた

  犬の名前で 大声で

  わたしは子供をよんだ

                         (「愛」全文)

  

 この「あやまって/子供の飼犬を轢いた」という詩の舞台設定を経て、「わたしは子の食べかすを/うさんくさく嗅ぎ/とことこと/つぎの匂いに行く」(「ひるさがり」部分)ことになり、「悪感をささえていると/死んだ犬がはしってきて/わたしの吐瀉をなめる/なめられる足くびからわたしは消えはじめ」(「酔う」部分)るという不思議なイメージが繰り広げられる。私がここで「舞台設定」という言葉を使ったのは、大野は犬も飼っていなし、自動車の運転免許証も所持していなかったからだ(もっとも晩年の大野家には黒いラブラドールがいた)。この虚構の意図については、『大野新詩集』に付けられた、大野自身による「大野新詩集便覧」で次のように説明されている。

 

   私のなかから病気は次第に抽象化されるようになってきた。だが、麻

 薬中毒の癒後のように、私のなかにはどすんと黒いものがあり、その黒

 いものは悪やら毒やらと容易になじんでしまって、開かれた世界へでて

 いこうとしない。その退嬰を正当化したり弁護したりするいわれもない

 が、一言でいえば、犬や病気は、私の背理的現実である。ものとなって

 走りでてくれ、そう思いながら私にはもどかしい。簡単に見ぬかれてし

 まうであろうが、私に犬を飼った経験はない。

 

 結核療養所から偶然に生還できた大野は、二十年弱の歳月を経て、その療養体験を克明に詩に記すことはなくなったが、まだなお語り尽くせぬ思いが体内に錘のように沈んでいたに違いない。この錘が「ものとなって走りでてくれ」という切実な願いによって犬に変じて詩は走り出す。けれど、詩の中で犬が現れても現れても、大野の心の錘が軽くなることはなかった。そうして『犬』第一部では、不吉な犬がグルグルと駆け廻るのである。第二部に至りようやく犬は消え、大野の背理的現実は、見事な現代詩の姿を獲得する。

 

  塔からとび

  砂利を背ですべり

  散弾で刺繡される樹林を迂回し

  豹のまるい屈身で塹壕におちる

  それから君はたちあがらない

  切れた電球のフィラメントが

  君のあたまをたたく

  遠いことだ

  自分の虫歯のにおいをかいだことは

  みじかい塹壕

  内臓のパノラマ

  鬚も卑下も泥のひとつまみ

  暁の匍匐をまねるちぢんだ腸

  まだ感覚の赤道にいる君の舌に

  たぶん神があたえるいちまいのカミソリ

  君はたてにそれをなめる

  サミィまたはトミィ!

  もっともありふれた人称をもつアメリカ兵!

  その時の声だ

  人気のない音楽堂で僕が聞いたのは

                                     (「冬の野外音楽堂で」全文)

 

 私はこの詩の魅力を上手く説明することができないが、長らく気にかかっている詩である。強引に解釈すれば、ベトナム戦争という当時の社会問題を自身の体内に取り込んで作品化したと解することができるかも知れぬが、私はそのようなことより、戦火を抜けた一兵隊の絶対的な孤独感に惹かれるのであり、この孤独感こそが、永年、大野の体内に沈んでいた錘が排出された証拠のように思えるのである。『犬』第三部では、次の詩集『家』に繋がる家族を主題とした詩が納められているが、黒い精神の錘を吐き出してしまった大野には「聖家族」という次なる背理的現実が必要だったようである。

 

【掲載誌】『交野が原』78号(2015年4月1日)

  大野新ノート(5)  詩集『家』

 

 第四詩集『家』(1977年、永井出版企画)により、大野新は第28回日本現代詩人会H氏賞を受賞する。大野の前後三年の受賞詩集を確認しておくと、第25回・清水哲男『水甕座の水』(紫陽社)、第26回・荒川洋治『水駅』(書紀書林)、第27回・小長谷清実『小航海26』(百鬼界)、そして第29回・松下育男『肴』(紫陽社)、第30回・一色真理『純粋病』(詩学社)、第31回・小松弘愛『狂泉物語』(混沌社)となっている。選考委員は近藤東、伊藤桂一、上林猷夫、小海永二、生野辛吉、土井大助、永瀬清子、長島三芳、野間宏、原子朗、安水稔和といった錚錚たる顔ぶれであるが、選考寸評で上林猷夫が「第28回H氏賞が東京地区以外の滋賀県守山市在住の大野氏に落着いたことを、心から喜びたい」と記していることが、当時の地方在住詩人の立場を表しているようで興味深い。また、近藤東の寸評では「きくところによると、ご当人は五十歳近いそうである。或いは、前回、前々回あたりの受賞者が二十歳台の若者であったので、その歯止めの意味だろうなどとカンぐる人もあるかも知れないが、そのような政策的意図を持った委員はひとりもいないことを、蛇足ながら申し添えておく」と述べ、永瀬清子は「大野さんは新人かどうかで又問題になったが、年齢にこだわらぬ私も、大野さんの詩歴の長い点ではやや考えた」と記している。大野自身も「五十にもなって新人かよ」と揶揄された、と後に語っているが、様々な意味で異例であったH氏賞受賞により大野の詩人としての名声は確固たるものとなった。

 詩集『家』の輪郭については、生野幸吉が寸評で上手くまとめている。「「家」は家系というほどのつながりをもたず、亡母からその孫までの短かい時間のなかの家族であり、同時に建てかけの、やがては既成の、住居であり、またおそらく、それらすべてを内蔵し、それらすべてによって包囲され突きやぶられる作者の肉体でもある」(「家など」より)。最初に配置された二篇の詩を見ておこう。

 

   指の爪に

  のぼる白い月をみに

  死んだ母がはいってくる

  そして私のいっぽんの指がひかるのだ

  指を垂直にたてて

  深夜梁をあげたばかりの

  建てかけの家を

  くぐってあるく

  母よ

  いまは

  干潟だ

  水もしろい烏賊もひいて

  遠い月のものだ

  あの月のさらにかすかな反照として

  透いた家のなかに

  あなたと私が

  います

              (「母」全文)

  

  家をこぼつと

  釘のついた松材や

  蛇口ごとほりだされた水道管が

  しゃにむに私のうでのなかに乱入してきて

  うけそこねては

  額に穴をあける

  雨期と乾期のさかいめで

  この家が建つまえの蛍の原

  ひかりをまとって死んだ老女の遺相が

  反ったり沈んだりする

  井戸のそこまで

  私は廃材をすてにゆき

  青白い反射をうけては戻ってくる

 

  虫くいだらけの乳歯の子と

  玄米主義者の父とが

  地霊のまわりをあるいている

               (「地霊」全文)

  

 この二篇から分かるように、大野は凡庸な日常を作品化しているわけではない。家族や家族のよりどころである「家」という日常描写に陥りがちな主題を、非日常的に描くことにより「家」の存在感を浮き彫りにしようとしているのだが、生野が指摘した「それらすべてによって包囲され突きやぶられる作者の肉体でもある」と解釈するためには、「人質」を読まねばならない。

  

  わたしは人質ではない

  コルトのみじかい銃身からじかに

  ぶっと腸をとばす

  弾をおもいうかべはしない だが

  ぬれた写真には

  無人の駅や

   やかましい虻や

  睡眠者の血のような

  とろっとした川が

  わたしをとおってうらへぬけるのがみえるだろう

  ほそいあしをした蛙腹の父が

  ひっそり坐っている台所の

  朝夕を

  とおい水のひかりが

  なぶっているのがわかるだろう

  あの水からくるひかりの

  人質のように

  わたしの子供がそそくさと食事をするのまで

  まるうつりだろう

               (「人質」全文)

 

 「コルトのみじかい銃身からじかに/ぶっと腸をとばす」は腸結核を患った大野ならではの身体認識であり、従来の大野作品の延長線上にある云わば「想定内」の表現であるが、冒頭の「わたしは人質ではない」の一行は、今読んでも充分新しい。そして銃弾のように飛ばされた肉体の一部から、大野は家族の輪郭を描いていくのだ。大野は「受賞のことば」として、詩集『家』を次のように総括している。

 

   肉体をかりそめのものと思ったことはなかった。私は肉体をささえる

 ことで、ながい間精神をいじめてきたような気がしている。肺結核や腸

 結核の心理的な負担からのがれてきた昨今になってようやく、ある歌人

 が「魂の鞘」とうたった位置へ、肉体をつれもどしてきつつあるのだろ

 う。

   「家」がH氏賞を受賞しえたのは、幸運であるというほかはない。私

 には溢れでる才能がない。「家」の内容も僅か十九篇で、うち三篇は収

 録に不満があった。マイナー・ポエットであることを自認せざるをえな

 いが、自認のうえにたつ節度は考えてきた。かりそめにして、かりそめ

 ならず、という思いは、いましばらく私を引率するだろう。

                                                    (『詩学』1978年四月号)

 

 死を覚悟した結核療養所から生還して二十年が経ち、H氏賞受賞により目映い前途が約束されたかのように見えた大野の生活。しかし、更なる不運が襲うことを、この時点では誰も知ることはなかったのである。

 

【掲載誌】『交野が原』79号(2015年9月1日)

  大野新ノート (6)     詩集『続・家』

 

 

 大野新がH氏賞を受賞した三年後の1981年、相次いで悲劇が起きた。五月、大野が所属する詩誌「ノッポとチビ」同人で、その詩才を高く評価されていた黒瀬勝巳が失踪、京都「曼殊院」裏の山中で遺体が発見された。享年三十六歳。そして六月八日午前五時二十分、大野の長男・裕が交通事故で死亡した。享年二十一歳。大野の哀しみは計り知れないものがある。そして大野の詩も変わる。大野は「現代詩手帖」(1983年二月)に掲載されたエッセイ「いまは はじめよう」で、次のように記している。

 

    アルバイトの夜勤からの帰りの睡魔でセンターラインをこえたこ

  と。対向車は4トントラックで、乗員ふたりは軽傷だったことがわ

  かった。

   葬儀や負傷者の見舞、運送会社との折衝など、兄弟親戚の世話に

  なりながらすごしてきたある日、磯村英樹さんから『水の葬り』と

  いう1973年十月刊の詩集をいただいた。(中略)

    私の場合は事故以後、いままで書きつづけてきた主題がすっとあ

  おざめて消えた。いうならば書きたいものがなくなった。しばらく

  して書こうとすれば、息子のことになるのだが、消極でしかない。

  磯村さんの詩集を読んだとき、親としての社会的責務のような緊搏

  が逆にほどけた気がして、悲しみだけがあふれた。

  

 私は、大野から、この磯村英樹詩集『水の葬り』を見せて貰ったことがある。経折り形式でお経を思わせる造本に、いたく心打たれた記憶がある。

 さて、このような悲劇を経て編まれたのが詩集『続・家』であるが、この詩集は先に論じた『犬』同様、単行本形式の詩集ではない。『現代詩文庫81 大野新』(思潮社、1984年)刊行に当たり、既刊四詩集全篇に続き「未刊詩篇」として配置されたものであり、Ⅰ部・二十一篇、二部・九篇の計三十篇が収録されている。しかし、単なる拾遺詩集ではなく、明確な編集意図の下で構成された独立した詩集であると見るべきであり、Ⅰ部には「言葉のたまり場」のような広く知られた詩も配置されている。

 

   黒田三郎はのどの奥を癌にやられた

  高見順はもうすこし下って食道だった

  言葉のたまり場を灼かれた

  火の断崖(きりぎし)だった

 

  いま前の座席でおさなごが目をあける

  うるんで半睡

  水の精になっている

  まだ言葉が回復していない

  鬱血のぬるぬるした

  夢ののどに

  まだ言葉がめざめていない

  梅を観ての帰り

  一輪の声が言葉のたまり場でぬるんでいる

                                      (「言葉のたまり場」全文)

 

 先達詩人達を死に至らしめた病状を「言葉のたまり場を灼かれた」と捉える視点が卓抜であり、充分に言葉を操れない幼子との対比も見事な、いわば変化球型の詩である。けれど、長男を失った哀しみが紡ぎ出したⅡ部の詩篇は、直球で私の心に飛び込んできて、批評の言葉を失わせしめるのである。

 

   そうだろう

  なんの約束も報いられないのが本当だろう。

  運転中の事故で死んだ息子の財布には

  スキンがはいっていた。

  これはどんな約束のあかしだったのだろう。

  私は三日間息子の頬をなでた。

  父親だからだと思っていた。

  私は私の父の死に顔を撫でなかったから。

  火に入れるまえに

  私は息子の頬を小さく撲(う)った。

                                                  (「約束」全文)

 

 『現代詩文庫81 大野新』所収のエッセイ「合図 ―六月のうた」に、この詩を書いた後のことが記されている。

 

    書いた草稿を机上に置いたままでいたら、日ごろ無関心な妻がこれ

  だけは発表しないでくれ、といった。私はうなづいたが、私自身は息

  子の性関心を当然だと思っていたので、妻には内緒で、依頼されてい

  た京都の随想誌に送った。(中略)

    息子には、恵まれない境遇の親しい友人が多かった。一周忌の夜、

  十人ばかりの友人がビールをさしかわすようになった頃合を見はから

  ったように、妻がいった。

   「遺体のポケットにあった財布からね。スキンがでてきたのよ」

    すると、異口同音のような答えがかえってきた。

   「あいつ、いつも見せてたよな」

   「これが、おれのお守りだってな」

 

 大野はこの後「ふしぎなものだ。こういう会話に接してみると、私たちのなかで陰から陽にかわる流れがあった」と記す。こうした経験を経ながらも、大野は亡き息子を詩で追い続ける。遺骨を拾ったとき(「紅」)、保険金を受け取ったとき(「奸計―沖縄本島で」)、葬儀のとき(「もういちど葬儀から」)等々様々な出来事が行きつ戻りつしながら、作品化されていく。そして『続・家』は次の「休日の旅」という作品で終えられ、いよいよ生前最後の詩集『乾季のおわり』へと向かうのである。

 

  二日つづきの休日家にいて

  ビールをのんでいるあい間は

  妻と娘のあいだを旅していた

  娘の高校のリーダーを一緒に訳し

  汚染のひどいテムズ河に行き

  河に面した国会議事堂の窓という窓

  香水漬けのカーテンのかかる19世紀半ばの

  廊下を歩いては/またビールに溺死してねむった

  妻と 息子の墓にゆき

  彫った文字のなかに住む

  青蛙に水をかけ

  炎天に線香をくゆらした

  六月の息子の三回忌(後略)

 

【掲載誌】『交野が原』80号(2016年4月1日)

  大野新ノート (7)     詩集『乾季のおわり』

 

 

 大野新の生前最後の詩集となる『乾季のおわり』(砂子屋書房)が出版されたのは、大野が六十五歳になる1993年であった。単行詩集としては、H氏賞を受賞した『家』以来、実に十六年ぶりの刊行ということになる。大野は自ら詩集刊行時期を統御するタイプの詩人ではなかったので、版元の砂子屋書房の田村雅之社主の強い勧めがなければ、恐らくこの詩集をまとめることはなかっただろう。

 『乾季のおわり』はⅠ部・七篇、Ⅱ部・十篇、Ⅲ部・八篇、Ⅳ部・七篇の計三十二篇から成っているが、Ⅲ部とⅣ部は追悼詩や親しかった人々の人物像を描いた詩が納められていて、Ⅰ部とⅡ部の濃縮された詩観との落差は大きい。私が大野新と出会ったのは、『乾季のおわり』が刊行された直後のことであったが、私は恐れながらも、大野にⅠ部・Ⅱ部の詩の形で詩集全体を貫かなかった意図を聞いた。大野は笑いながら「そうしたかったけど、(詩が)続かなかった」と答えてくれた。戦い終えたボクサーが、その試合展開を語るような潔い回顧であった。また、大野は所属している近江詩人会の会報で「詩集のⅠの部分についてですが、このころの詩の勢いのようなものを、私は持続できませんでした。(中略)この当時の作品の出来を、私はひそかに完璧だと思っていました。続けられなかったことが才能の限界です」(1994年十月版)と記している。

 それでは、「ひそかに完璧だ」と考えていたⅠ部の冒頭三作品を引こう。

 

  その村のまわりには

  水あめのように撚(よ)られている川水がめぐり

  笹むらをわけてはいる径は湿っていた

  死んだ叔母の顔を二十年若くした女が

  暗い土間から顔をだす

 

  夢にはいっていくと

  脱色されるのが自然なふうに

  歳月をぬかれて私は立っていた

  引揚げるということは

  誰の意志でもなかった

  なにか大きなものが動き

  船のなかで吐けるだけ吐いて

  私は女のまえに立っているのであった

 

  死んだ叔母とそっくりの女は

  米袋をかかえてでてきたが

  死を抱きあげる顔だった

  かた足をあげたまま頸だけめぐらす鶏のまわりを

  螢がとんでいた

                    (「陰画」全文)

 

  肋の浮きでた皮膚は

  風邪熱ですぐ汗をかいた

  毛布にくるまった汗の棒は

  発汗をおえたら慮外の空間へ脱けでるんだぞ

  と念じていた

 

  うつせみを

  魂の鞘といった歌人がいたが

  鞘ばしろうとするなかみと

  すうすうした気配で

  親しかったころ

 

  sooner or later

  と舌をこもらせていた

  nやtからrへ舌を捲くときの

  悶絶へ動くささやかな

  あそびであった

                  (「あのころ」全文)

 

  首に手ぬぐいをまきつけ

  痰まじりの気泡ののぼる

  垂直な呼吸をしながら

  ねまきの私が私をみている

 

  この写真を

  私のほかのだれがみつめかえそう

  細いからだをふるわせて

  桂馬の受けを考えていたこともある 許されて

  まじまじと女陰をみたこともある

  体温計のような華奢

 

  外では革命の予感があったが

  隣床では親しい

  巡査が喀血をくりかえし

  氷嚢を胸にのせてじっとしていた

  写真の私は

  わが終末以外の何を予感していただろう

  「見る人(ボワイアン)」が好きだった私は

  巡査が警部補となり

  その妻が癌で死に

  娘むこが自殺することの

  ただのひとつも透視しなかった

                  (「見る人」全文)

 

 旧朝鮮(現・韓国)からの引き揚げの記憶や結核療養所での体験が、セピア色になったり天然色になったりしてスライドショーのように描かれていく。その筆致は削ぎ落とされ、いささかの無駄もない。過去のあのときの視点が、現在から捉え直され、また過去に返される。過去の大野は、アルチュール・ランボーよろしく「見る人」=「voyant」=「予見者」を気取り、「ただのひとつも透視しなかった」と自らを貶めるが、私には一度死を覚悟した大野の眼には、『乾季のおわり』に書いたような時の往還の道筋が、早くから見えていたように思う。そして「若いときにほとんど死んだ人が、頑丈な梯子を選んで、一段又一段と堅固に伸び上ってきた」(天野忠による人物評)大野には、自分の詩の頂点が鮮やかに見えていて、後は下山するしかないこともよく分かっていたのである。

 『乾季のおわり』は、翌年の第十二回現代詩人賞の候補作となるが「該当詩集なし」で受賞を逸し、第二回萩原朔太郎賞の候補作六作品に入るものの、盟友・清水哲男の詩集『夕陽に赤い帆』(思潮社)に受賞を阻まれた。けれど大野はこの萩原朔太郎賞での秋山駿の次の選評を、何事にも替え難いものとして喜んだのであった。

 

  大野新『乾季のおわり』を読み始めると、私はたちまち、あ、これは

 正座して読まなければならぬと思った。言葉の立ち姿といったものが、

 そう命じていた。真摯なものが触れてくるからである。

  真摯といっても、詩集には死者への想いを詩化したものが多いが、そ

 れを指すのではない。想いなどというものをラッキョウの皮のように剝

 いて、つまり思考や感情による意味の皮を剝いて、それでも消しがたく

 自分の心の襞に残された言葉を、できるだけ正確に拾おうとする、何か

 そんな態度が真摯なのだ。

  沈潜ということが感ぜられる。自分を視る眼が澄んでいる。

  冒頭の一篇「陰画」の最終の二行は、

   かた足をあげたまま頸だけめぐらす鶏のまわりを

   螢がとんでいた

 であるが、その鶏や螢が、そのまま、これ以上どう仕様もないかたちで

 見えてくる。詩の一行と一行の間に、無言の密度があるから、そんなふ

 うに見えるのだ。

                (「新潮」1994年十一月号より)

 

【掲載誌】『交野が原』81号(2016年9月1日)

  大野新ノート (8)    『大野新全詩集』より詩集未収録作品

 

 大野新は一九九三年に詩集『乾季のおわり』(砂子屋書房)を出版して以降は、だんだんと作品を書かなくなった。2004年に脳梗塞で入院してからは車椅子を用いるようになり、晩年の三年ほどは意思疎通も難しくなった。そして2010年四月四日、守山市民病院で遂に逝去した。享年八十二歳。その告別式の際に、かねてより大野の詩を高く評価していた砂子屋書房の田村雅之社主より遺稿集発行の意思表示があった。私は、詩集『乾季のおわり』以降の詩作品を遺稿詩集として出版して貰えるのだと思い、協力を申し出た。しかし、一周忌を目処に全詩集を刊行することが田村社主の意向であることが後日分かり、私は慌ただしく刊行準備をすることになった。

 全詩集刊行の場合は、既刊詩集に収録されなかった詩作品をどう扱うのかが問題となる。大野は生前、全詩集刊行を「残すほどのものではないから」と、断っていることを私は知っていた。そのため大野が自らの意思で既刊詩集に収録しなかった詩を拾い集めて刊行すべきであろうか、という疑問が私にはあった。しかし一方で、既にどこかの詩誌等で発表された作品は公表を前提に執筆されたものであり、たとえ限られた編集期間しかなかったとしても、可能な限り調査して全詩集に収めておくことが、後々、大野の作品を読みたい人にとっては大切なことになる、という思いの方が私には強かった。

 大野の一周忌には間に合わなかったが、2011年6月20日、以倉紘平監修、外村彰・苗村吉昭編集で『大野新全詩集』が砂子屋書房から刊行された。外村彰は滋賀の文学者に造詣の深い近代文学研究者で、詳細な年譜作成と短歌作品などの解題執筆を担当して貰った。『大野新全詩集』には、本稿でこれまで紹介してきた既刊六詩集の全篇に加えて「詩集未収録作品」として百二十五篇を収録した。他に、若き日の作品である、旧制高知高等学校の寮歌、短歌九十二首、作品集『黙契』所収の放送用詩劇も収録している。

 「詩集未収録作品」は、当然、詩集としてのまとまりはない。しかし、既刊詩集から漏れ落ちた詩篇を辿っていて、新たな発見をすることがあった。まず「中村正子さんに」という献辞のついた「病室にて」(1957年発表)という詩と、「中村正子へのレクイエム」(1960年発表)の二篇について触れておきたい。ここでは「病室にて」を引いておこう。

 

  あなたは

  肖像のようなわずかな余白をもつ

  空間をきりつめたのはどういう画家の構図なのか

  デッサンを単純にするための

 

  左肺全葉摘出

  右肺葉部分切除

  生きるとは

  死とたたかうことだという

  モチーフか これは

 

  時間のカンバスの上で

  ゴッホのように悲しみを透明にするほかはないが

  ゴッホの毒とたたかうため

  あなたは

  タッチのかすれた胸を上に

  まっすぐねている

                (「病室にて」全文)

 

 中村正子は大野と同じ1928年生まれであるが、結核のため二十三歳のとき国立療養所紫香楽園に入所し、やがて詩を書き始めた。大野はその前年から療養所にいたが、中村が二十七歳の年に退所してヨロヨロと「生の世界」に帰還していく。一方の中村は先の詩にあるように、「左肺全葉摘出/右肺葉部分切除」を含む計六回の手術を受けながらも、三十二歳の若さでこの世を去った。私は大野の「詩集未収録作品」調査を通じて中村正子のことを知り、後年、編者として『結核に倒れた小学校教師 中村正子の詩と人生』(2014年、澪標)をまとめることになった。また、「詩集未収録作品」には、1977年九月発行の詩誌「ノッポとチビ」に発表された、次のような詩も収録している。

 

  (前略)

  私はそのとき受話器をとっていた

  とおいざらざらした都市の

  団地の一室で

  酒でざらつく舌が

  つぶやいていた

 

  彼は切りだしナイフを腹につきたてた男の話をしていた

  発作的な力でつきたっても

  横にひけないナイフのことを

  そのまま晒をまいてすませた男のことを

  彼も私もながく尊敬してきた男のことを

 

  牛のイメージはまっかになっておわる

  蒼白の小舟がゆれている/その中間はみていない

 

  彼はもっとこわいことをいった

               (「とおい電話」部分)

 

「彼は切りだしナイフを腹につきたてた男の話をしていた」の「彼」は清水昶であり、「男」は石原吉郎である。石原吉郎は、この詩が発表された1977年の十一月に自宅で入浴中に死去している。「詩集未収録作品」の最後の作品は、1999年八月六日の読売新聞(大阪本社版)夕刊に発表された「首を折る男」。確認できている大野新の最後の詩である。

 

  駅前に大半は空店のビルがある

  二階のがらんとした通路で

  しおたれた男が両ひざを抱き

  警官がみおろしながら訊問するのをみた

  首を折る男はいつも気にかかる

  そのビデオ店で孫娘との約束を果し

  出てきた道でいつしか男に添われていた

  予感のように私は男を見

  孫娘のスキップはとまった

  ―電車でお金をすっかり抜きとられてね

  ―喧嘩したけど及ばなかった 逃げられた拳に血がこごっている

  ―秋田県大館市の僧です

  手首に巻きつけた細い数珠をみせる

  ―一昼夜の断食で腹ぺこだ 警官も親身じゃないね

    市役所に行ってみろだ

  ひとことも喋らせずさらに手で歩みを制した

  ―ねている間のぬすっとの仕業や

  ぷらんと空を蹴った

  靴のゴム底の前半部がスカッと切られ

  ソックスの右足が割れ目からでた

                (「首を折る男」全文)

 

 この詩に書かれているエピソードについて実際に大野から聞いたことがあるが、大野は自宅にこの男を連れ帰り自分の靴といくらかのお金を渡したそうである。大野が見ず知らずの男をそこまで労ったのは、実際に「首を折る男」を経験したことがある者だけが知る絶望への共感に違いなかったのである。

 

【掲載誌】『交野が原』82号(2017年4月1日)

  大野新ノート (9)    評論集『沙漠の椅子』

 

「大野新ノート」の残り二回で、大野の散文集について触れておきたい。評論集『沙漠の椅子』(編集工房ノア)は1977年六月に刊行されているが、同年十月には詩集『家』(永井出版企画)も上梓され、この詩集で翌年に第28回H氏賞を受賞することになる。評論集刊行のタイミングとしては、最適な時期であったと言える。これは、H氏賞受賞後にこの評論集も併せて注目されたということだけでなく、大野が精緻な評論も書ける詩人であるという安心感が詩集『家』の評価を固めることにも繋がったのではないか、と考えるからである。選考委員の一人であった安水稔和は「一筆」という題名の「選考のことば」(「詩学」1978年四月号)で「大野新は夏に評論集『沙漠の椅子』を、つづいて秋には詩集『家』を出して、近年の営為をあらわにしてくれた。『沙漠の椅子』で石原吉郎と天野忠を軸に「沙漠の椅子」に耐える詩人たちを論じた氏は、『家』でみずから「沙漠の椅子」に耐える詩人としての位置を占めた。大声を発する人ではない。深い声の人である」と記しているが、H氏賞選考時だけでなく、評論集と詩集の相乗効果で大野の真価を知った人たちは多かったのではないだろうか。

 『沙漠の椅子』は四章立て構成となっており、Ⅰ章は石原吉郎に関する七つの評論、Ⅱ章は中江俊夫、清水昶、清水哲男、粕谷栄市、黒田喜夫、嵯峨信之についてそれぞれ記した六作品、Ⅲ章は大野自身のことや同人誌「ノッポとチビ」の推移などを記した八つのエッセイ、Ⅳ章は天野忠に関する四つの評論が収録されている。最も古いものは1957年七月に詩誌「鬼」に発表された「嵯峨信之論」であるが、収録作品二十五本の内、1970年代に執筆されたものが二十二本を占めている。つまり、大野が四十代の頃の評論を中心とした著作であった。

 『沙漠の椅子』に収録されている詩人論の中でも、石原吉郎に関するものはその難解な詩の解釈の手掛かりとして参照されることも多く、一時期、石原と親しく接した大野だからこそ書けた貴重な記録もある。例えば次のような記述である。

 

  フランクルを抄いてみよう。七年前、二度目に逢った宿で、

  石原吉郎はこの本を鞄からとりだして、「聖書のように読ん

  でいるんだよ。」と言った。サイドラインや書き込みのある

  この恐怖の書は、(貰いうけて、今私の机上にあるが、)萎

  縮しきっていた石原吉郎の舌を感電させ、麻痺した神経に何

  度か硬直的な覚醒を強いたはずである。

             (「石原吉郎論」より)

 

 大野の病状が悪化した2007年の頃であったと思うが、大野夫人に頼まれて私は書棚の整理に伺ったことがあった。その際に先の記述が私の念頭にあったので、石原の『夜と霧』を探し出し、後々のために私が預かることになった。その結果、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか ―詩人・石原吉郎のみちのり』(2009年、岩波ジュニア新書)で石原のエスペラント語の書き込み部分が写真掲載されたり、細見和之『石原吉郎 ―シベリア抑留詩人の生と詩』(2015年、中央公論新社)において紹介されてもいる。細見はこの物的証拠を基に「フランクルの『夜と霧』は刊行以来いまにいたるまでロングセラーを続けている本で、当時もけっして入手困難ではなかったはずだ。石原がわざわざ自分の使っていた本を大野に譲ったということは、石原の側に大野にたいしていささか過剰な思い入れがあったことを示唆しているだろう」(前掲書P235より)と推論している。

 慧眼の論客として知られていた大野の詩人論は、鋭利な文体でそれぞれの詩人の本質を突いていて魅力であるが、私は『沙漠の椅子』の中では、Ⅲ章に収録されているエッセイの「水中花」の描写が最も印象に残っている。

 

  私は昭和二十三年の夏、野洲川で泳いでいて、突然かっ血し

  た。血は水のなかにおちると急にスローモーションになって、

  弁のながい水中花をひらいた。以来七年寝たが、あの時の戦

  リツは必ずしも恐怖の戦リツではなかった。あの時私ははじ

  めて魂で水をみた。

                    (「水と魂」より)

 

  とびこんでひとかきした水のなかで、突然私は喀血したので

  ある。血は私の胸のおくのくらい洞窟を鳴らして噴出し、水

  面におちたところから、水中花の、非常に緩慢な伸縮のほそ

  い花弁となりつつ沈んでいった。その血の色をさらに煽情的

  にする水の青さをみているうちに、私は、自分が臘のように

  立っている寒さに気づいたのである。朝鮮からの引揚者とし

  ての貧窮生活のなかから、食塩や甘味剤などの闇屋のバイト

  で、辛うじて学資をつくり、旧制高校から大学へ進学したば

  かりの夏であった。        

                      (「声」より)

   

 『沙漠の椅子』の出版元である編集工房ノアは、1975年に涸沢純平社長が大阪で起こした出版社であるが、「あとがき」で「涸沢純平氏は、二年がかりで、稿の整理を勧めてくれた」と大野は記している。先日、このことについて涸沢社長に確認したところ、「「トーア」という雑誌に大野さんが寄稿した文書が非常にキレ味のよいカミソリのような文章で、併せて掲載されていた大野さんの写真もシャープな顔立ちだったので、この人の本を是非当社から出したいと思い、『ノッポとチビ』の例会が行われていた京都の「ふじ」に二年間通いました。1975年の正月になって、大野さんの自宅に呼ばれて原稿の束を渡されました。収録作品の配列は大野さんの指示通りでした。」と説明してくれた。涸沢社長のこの熱意がなければ『沙漠の椅子』は世に出ることはなかったのだが、そのきっかけとなったのは先に引いた「声」であり、結局は大野新の結核体験に立ち戻ることになるのである。

 

 

【掲載誌】『交野が原』83号(2017年9月1日)

  大野新ノート (最終回)    『人間慕情 ―滋賀の百人(上・下)』

 

 1990年1月7日、大野新は『滋賀民報』に滋賀県内の各界で活躍する百人の訪問記事「大野新の人間慕情」の連載を開始する。大野は62歳であった。「試運転としての第一回めは、旧知の詩人医師、藤本直規さんにあいて役になってもらった。氏は、詩人として自費出版したばかりの第三詩集『別れの準備』が、第三十九回H氏賞の栄に輝いたばかりで、時宜を得たものであった」と、後に出版することになる『人間慕情 ―滋賀の百人(上)』(1996年、サンライズ印刷出版部)の「あとがき」で記しているが、藤本直規の紹介で琵琶湖研究所の嘉田由紀子(後の滋賀県知事)に繋ぎ、以後は基本的にリレー形式で次の対談者を紹介して貰う形で1998年10月11日まで連載が続けられた。『人間慕情 ―滋賀の百人(下)』(2000年、サンライズ出版)所収の「ひょいと一面識もない人を訪ねて、あがりこみ、周囲を」という大野の文章には、連載時の大野の心境がよく現れているので、次に引いておきたい。

 

  今になってみると、よくも始めたものだ、という思いがある。ひょい

 と一面識もない人を訪ねて、あがりこみ、なめるように周囲を見廻しな

 がら、趣味がどうのこうの、というような興味は根っからなかった。私

 自身が無趣味であって飾り気のない部屋に積乱してある本のなかで、寝

 ころんだり、ビールを飲んだりしている、怠け者である。ものを書くこ

 とにもルーズである。しめ切りがなければ、書かないでいる安穏を選

 ぶ。それに、いつまでも初老気分でうだうだしているうちにホンモノの

 老年がやってきた。「滋賀の百人」にであって、二時間ばかりの対談テ

 ープをとって、それを二千字のスケッチに仕上げる道楽を続けさせても

 らっていて、一九九八年十月、石丸正運さんに辿りつき、「これで百人

 目」といわれた。一年以上の連載記録のない週刊新聞で、月に一度とは

 いえ、八年間も掲載させてもらったということは、ひとりの生涯のなか

 でも大きく認識のかわってもいい期間である。身体的にも、家族環境に

 も何かがあっても不思議はない長さである。

 

 この記述の後で、大野は自身の脳出血の経験に触れ「右半身には、多少の麻痺がある。階段や坂道は苦手になり、小走りもできなくなった。/ 集中力がなくなったことは、はっきり感じた。ある新聞で毎月詩作品の時評を依頼されていたが、苦痛となり、信頼できる友人を推薦して交替してもらった」と書いている。これは『読売新聞(大阪本社版)夕刊』の毎月の詩時評を1995年2月20日を最後に以倉紘平に交替したことを記しているのだが、『滋賀民報』の「大野新の人間慕情」は途中休載があったものの、大野が70歳になる1998年10月まで続けられるのである。そして先に述べたように、滋賀県の出版社であるサンライズ出版から、『人間慕情 ―滋賀の百人』として上巻は1996年、下巻は2000年に出版された。この下巻が大野が生前に刊行した最後の単行本となった。

 『人間慕情 ―滋賀の百人』の中で対談した詩人は、藤本直規、田井中弘(玉崎弘)、尾崎与理子、竹内正企の他に童謡「あの子はたあれ」の作詞者として知られる細川雄太郎がいた。小説家では芥川賞作家である高城修三をはじめ、長谷川憲司、畑裕子がいて、他にも童話作家の今関信子、写真家の今森光彦、映像作家の中島省三、造形作家の本郷重彦など、大野と既に面識のある著名人もいたが、この連載で知り合った人も多かった。中でも映像作家の中島省三は、飛行機から空撮した琵琶湖の映像作品の上映会やピンホールカメラで撮影した写真展などを頻繁に開催していた時期でもあり、私は大野に連れて行って貰い中島省三に会ったことがある。私が第一詩集『武器』(1998年、編集工房ノア)を出す直前のことだった。大野は私のことを「将来きっと名の出る詩人になるから」と紹介してくれ、中島は無名の私にたいへん好意的に接してくれたことを、いま懐かしく思い出している。これは中島省三に限ったことではなかったが、驚くべきことは、私が第一詩集に収めることになる武器シリーズの作品を書く前の1996年7月13日の時点で「この人は感覚が鋭敏でね。まだ第一詩集は出ていないけど、出たらきっと良いものになると思う」と大野がある人に私を紹介してくれていたことである。あまりに驚いたので、私はその日のことをノートに書き残している。私は28歳であったが、大野のこの言葉により第一詩集刊行を目指すことにした。武器シリーズの着想を得たのは、その日から四ヶ月後のことであった。以来、大野の期待を裏切らない仕事が出来ているのか心許ないが、大野新のおかげで今の私がいることだけは確かなことなのである。『人間慕情 ―滋賀の百人(上)』の「あとがき」には、連載タイトルについての大野の説明があるので、最後に引いておきたい。

 

  「大野新の人間慕情」というふうに、タイトルに私の名前を入れるの

 は、小西編集長(※〈筆者注〉『滋賀民報』の編集長のこと)の押しつ

 けであったが、逢う前から人間慕情はないだろうという当然の疑問に対

 しては、こういう企画に従った私の願望をこめた命名であったことを告

 白しておきたい。人間ひとり、積極的な生きかたでしか顕現されないも

 のがある。それをあとづけることを人間慕情と名づけたかった。それ

 も、なるべくなら世間的な名声や金銭欲からは遠い領域で。実は、こん

 なオプチミスティックなタイトルに、期せずして内容が沿ってきたこと

 に私は驚いている。

      

 私は大野新の最後の17年間に付き従ったに過ぎないが、大野の詩の最盛期を共に歩んだ人たちからの、大野新に対する人間慕情が今後現れることを期待しつつ、このノートを終えたい。

 

 

【掲載誌】『交野が原』84号(2018年4月1日)